自己紹介を掘り下げてみる① 幼少期から高校時代

こんにちは!

貝塚市でアクセサリー作家として活動しております、渡邊あゆみです。

昨日のブログで投稿させて頂いた、Twitterのモーメントの自己紹介を140文字の制限を外して掘り下げてみたいと思います。

自己紹介を掘り下げてみる

佐賀県の農家の長男の元に長女として生を受ける

父方母方ともに初孫でしたので、それは可愛がられたそうです。

母方の祖父母は薬局を営んでおりましたので、私が発熱したときなどは夜中でも薬を持って駆けつける程だったとか。

反面、その時代跡取りの長男を生むことが必須だったようで、私が女だった事で母は針のむしろだったと何度も何度もなんだったら今でも申しております。

(幼少期にはこんなエピソードもありました)

嫁姑に加え、私の父と祖父も不仲だったこともあり、私の幼稚園入園のタイミングで祖父母とは別に暮らし始めました。

親の開業

時はバブル時代。

アパレルメーカーやショップで勤務していた父は、私が小学校入学と同時に開業し、セレクトショップをオープンさせます。

オーナー夫婦として最新のファッションを身にまとい、店舗で働く両親の姿は、子どもの私の目から見てもとても格好良く、憧れでした。

実際に、学校で将来の夢を書く際に『ハウスマヌカンになって、素敵な服を売ったり買ったりしたい』と書いたことを覚えています。

(ハウスマヌカン=小売店で客のスタイリングのアドバイスや商品の説明をする女性販売員)

この頃は当たり前のように家業を継ごうと考えていました。

小学校低学年の頃は、帰宅後は習い事がない日は母親が迎えに来て店の裏の事務所スペースで閉店までの時間を過ごしていたので、同世代の友達と遊んだ経験が殆どありません。

両親や従業員さん、仲の良い常連のお客さま等、大人に囲まれて育ちました。

 

その2年後には、佐賀市内一の歓楽街に新しく建ったビルの中にJAZZバーをオープンさせ、順風満帆かに見えた経営状況ですが、バブルの崩壊と共に傾いていきます。

両親の不仲と妹の誕生

一見矛盾したタイトルに見えますが事実です。

セレクトショップとJAZZバーの二店舗を経営するうちに、気づけば家族の中で父だけがすれ違い生活になっていきました。

妹が生まれてから帰宅しない日が増えたのか、帰宅しない日が増えてから妹が生まれたのかどちらかはっきりとはしませんが、私には9歳年下の妹が生まれました。

不在の父に代わって、母は私に子育てのパートナーとしての役割を求め、おむつ替えやミルクやり、離乳食のお世話など、お手伝いの範疇を超えて頑張っていました。

でも、9歳でも赤ちゃん返りってあるんですよ。

急におなかが痛くなって学校に行けなくなったこともありました。

そんな中、母が遊びに来た親友に私の前で「あゆちゃんより妹ちゃんの方が可愛い」と発言しました。

この出来事で何かが壊れてしまった気がします。

小4の夏の転校

バブル崩壊後の経営の悪化と、経済苦、まだ幼い妹を祖父母の協力を得ながら子育てする為か、父方の祖父母と再び同居する事になりました。

転校先の担任の先生と兎に角合いませんでした。

大人の中で育った私が、生意気で可愛くなかったんだと思います。

テストの成績だけは良かったので(算数はこの時点でもう躓いていましたが)、「衛生」等の項目で徹底的に悪い評価を付けられます。

細心の注意を払って、ロッカーや机の整頓、爪の長さを気を付けても「悪い」なのです。

三学期の三者面談でフィードバックされ、帰りの車の中で母親から「恥ずかしいから、今度こんなこと言われたら、また転校させる」と言われました。

転校先で方言が分からない中、一生懸命になじもうとしている中で、「また転校させる」と脅された上、「恥ずかしい」子のレッテルまで貼られてしまいました。

父は元来の祖父との不仲も有り、益々家に帰ってきません。

県内有数の進学校に合格するも、大学への進学を諦める

この頃には、私の将来の夢はハウスマヌカンからスチュワーデス(現キャビンアテンダント)に変わっていました。

スチュワーデス若しくはアナウンサーになりたいと話すと、母はそれは嬉しそうにしました。

本当の夢は声優だったのですが、中学の時その夢を明かした時の母の反応で、声優では母は喜ばないと学んでいました。

 

JAZZバーはバブルの崩壊と共に廃業しましたが、経営難ながらも何とか営業していたセレクトショップが倒産したのは、私が高校2年生の時でした。

今でも忘れられない、夏の出来事です。

図書館で勉強しようと自転車を走らせていると、県庁の近くで偶然母が歩いているのを見つけたのです。

店の営業時間中に、しかも車社会の佐賀で母が歩いているなんて普通では有り得ず、驚きました。

母も私を見つけて驚き、話が有る、と誘われました。

お濠の周りの楠の根元で、図書館の食堂で買った板チョコアイスを食べながら、告げられた内容は「店の倒産」と「離婚」でした。

次に母と再会したのは、その一か月半後の妹の運動会のお弁当の時間でした。

その間に私は心労で7キロ痩せました。

当時小学一年生の妹は訳が分かっていませんでした。

 

母だけが戻って来て、一緒に暮らし始めましたが、祖父母は当然ですが血の繋がった息子の方が可愛いわけですので、母と母方の親戚の悪口ばかり言っていました。

そんな状況なので、数か月で母と私たち姉妹は父方の祖父母宅を出ることになり、母娘3人での生活が始まりました。

来る日も来る日も、パスタとトーストを食べた記憶が残っています。

私の不遇の時代は、もう少し続きます。

 

最後まで読んでくださってありがとうございます。

また書きます!